昭和45年03月29日 特別奉修委員
竹葉会の高橋さん所の、奥さん郁恵さん一緒におかげ頂いて居りましたが、お届けをされる事の中に、前日そのあの人は非常に御神夢がはっきりしておるんですよね。それにあのう、高橋さんが最近、なんかあのう、私があのお茶をする時に良いだろうと云う、ポットの何かあの値段が無いちゅう様な立派な物が出来とるそうですね、今。それをあのう、郁恵さんと2人であのデパートに見に行かれたっちね。
そしたらそれには何か蘭の花の模様が入っとったか何かっちね。そしたらお夢の中にね、それがあのうお夢の中に出て来てね、その蘭の花が段々菊の花に成って行く所を頂いた。どう云う事でしょうかと言うわけですよね。私あの蘭のお知らせは此処では分からんと云う様なね、何時までも分からんといった時に頂くんですよ。ですからあのう、私達が信心しよっても分からん事が沢山ある事です。ね。
もう本当に分からん、だからその分からん事をですね、ええの悪いのと言うちゃ駄目ですね。分からん事、だからその分からん事でもね、段々その菊の花に変わって行く様なおかげを頂かなきゃいけんと云う事なんです。同時にそのポットであると云う事ですけれどもね。そう云うその有難いなら、菊の花的な心の中に喜び久しいと、喜久(きく)が書いてある様に、その喜び久しゅうこう持ち続けるね。
おかげを頂くためにポットのお知らせはお湯をね、冷やさないと云う意味だろうと私は思うたんです。それがそのう、そんなら、此の有難さは冷やしちゃならん。この有難さは、家まで持って帰らなならんと、云う事に努めたってね、決して冷えるて。やっぱり。そこでね。あの是れを冷やさないおかげを頂く為にはね、もう本当にもう親先生が、どげな信心すりゃ喜びなさるじゃろうかと、云う事を思い続けると。
例えばこのポットの場合は、高橋さんがそれを、あい処からそう感じたんです私はね。とにかくね、だからあのう、卸問屋に行ったら、まぁタマヤではいくらで売りよるばってん、安く、安うしとるじゃろう。処がね、小売の値段も卸の値段も同じだそうです。これはいくらに売ったっちゃ良かっちゅう事になっとるそうです、メーカーから言うて来とった。それだけ値打ちのある物らしいんですよ。
ですけんもうそんならば、もうデパートで買うたっちゃええけんでちゅう、ごたる風だったらしいですけれども。そのそう云う風に、その親先生がどうしたら喜ぶじゃろうかと、言った様な事と云う事に限った事じゃない。云うならば神様が喜んで下さる事。云うならば例えば私で言うならば、もう是はもう、私がもう寝ても覚めても、明けても暮れても、思い続けよる事はね。
もう人が助かる事さえと云う事ですよ。もう私はもうほん、是れだけはもう、風呂入っとろうが足揉んでもらいよろうが考えよるです。もう是れは自分のながらも、どうこうされんごと考えよるです。それがね、私の有難い物をいつもこう冷やさんですむんじゃなかろうかとこう思うですね。ん。だから自分で冷やすまいと云う様な事は絶対出来ない、出来るこっちゃないです。
この有難いとを持ち続けたいちゅうたっちゃ出来る事ないです。ですから本当にそう云う神様が喜んで下さる何をかをね、其処に思い続ける。どうしたならば人が喜ぶじゃろうか。あと私の事なんかでもですね、あの私は思い続ける事だと思うんですよ。それが神様の機感に適う事であるならですね、必ずこの暖めておって下さる。喜びがあのう冷える様な事は無いと私は思うんですね。
どうぞ。